Individual


それは「世界にひとつ」を探す旅…?

■ 九条いつきとは何者か?或いはハイデガー的存在論への反駁


ジブン、素の自分しかないっス。キャラを作るのはなんか嘘ついているみたいじゃないっスか派の方こんにちは。インターネットは匿名じゃないと死ぬ、アバターは絶対に必要。それじゃないと死ぬンだわ派の方いつもありがとうございます。九条いつきです!

今回はこれまで伏せていた『九条いつき』とは何者か?問題について、徹底的に検証していきたいと思います。

といっても大上段から「ヤツは何者か?」「彼/彼女はこういうヤツにござりまする!」「はぇー!?」みたいな話をしたいわけではありません。実際そんなことができるのはオバマ元大統領やバンクシーくらいの話で、『九条いつき』がそんなことをしても恥をかく。

ここでハッキリとさせたいこと、それを簡単にいってしまえば、『九条いつき』はキャラクターであるということです。

アイデンティである、と言い換えてもいいかも知れません。事実の話をすると、既にネタバレされている通り『九条いつき』は屋号です。企業名と同じようなものです。たとえれば、ミッ◯ーやディ◯ニー、キ◯ィちゃんやサ◯リオなどとさして変わりません。

ただこの説明では僕の意図することが全く伝わらないので、いつもの通りもう少し周り道をしたいと思います。

キャラクター『九条いつき』とは、何を意味しているのでしょうか?

1. キャラクターであるとは?

まず前回の考察『「シュレーディンガーの猫」という問題とその答え。』の結論だけ振り返ると、この世界の構成を3つに分けて考えていました。

第一に我々が生きている物理上の次元。次に触れることのできない形而上の次元。そして部分的に交差しているとする選択的な決定が行われる次元です。そして選択的な決定がミクロスケールでも行われていることが物質の存在の起源であり、物質から生物が生まれ、生物意識の起源になっているとそんな仮説をたてました。

素人がそんな仮説をたててもしょうがないという気もしますが、哲学の歴史上でいうと、右の考え方・発想は200年程前(※1)に通過していた内容なのではないかと考えています。

例えば形而上と物理上の分離を考えたカント、そして意識の次元を詳細に考察したフッサールやハイデガーをはじめとする現象学の面々といった具合に。

ですが僕は現象学はもちろん、哲学や科学がチョットデキル人でもなんでもありません。そこでここからは『現象学入門』(※2)を参考図書にして、さらに僕たち素人に優しいニコニコ動画の哲学ゆっくり解説動画をチラ見しつつ話すことになります。

正確性はまったく担保されておりません。そこはご了承の上、読み進めていただければ幸いです。

さて。そもそもの話ですが、僕達は意識があるから考えることができる。意識があるから外界の物事を観察できる。当たり前の話です。なので前回の考察では、話の都合で物理上の次元から話を始めましたが、本当はまず自分の意識から考えるのが筋ですよね?

意識はこうなっている、だから外界はこうなっているに違いない。

これを言い出したのがギリシャ哲学者だといいます。世界は全て水からできている、いや火だよと当てずっぽうで言っていた頃から、無知を知ったソクラテスの後に我に還ったプラトンです。『芸術には3通りある。』に出てきたあの人。IDEAですよね。美というIDEAを元に彫刻をつくる、そんな話でした。

するとそのIDEAはどこにあるの?という話になります。「あなたの、心です」と言いたいのは山々ですが、そこに同意する人達がでてくる以上、それはあなただけでなく皆の心にある。

つまり内側ではなく、外側にあるのではないか?

本当に「ある」のは外側の超越的なIDEAであり、僕たちのいる世界はその写像であり複製である。そういう「うつし世」としてこの世界はつくられている。

これが馬鹿でもわかるプラトン哲学、ということにします(ゆっくり解説動画による)。

…しかし、すると世界は本当に存在するのか?という風に思います。映画『マトリックス』みたいに本当はCGなのに騙されているのかもしれない。むしろもっと酷くて、脳だけプカプカ水槽に浮かんでいる「胡蝶の夢」に騙されているのかもしれない。もうがんばる必要ないし、一生寝てたらいいじゃない。

ですがこの考え方に真っ向から反対したのが、プラトンの弟子アリストテレスだといいます。

2. 師匠と弟子、至高と究極の対決しがち

それでアリストテレスの方ですが、理解の第一歩を踏み出すべく今度はwikipediaをチラ見すると、プラトンに輪をかけて空想魔術的なことがわかります。そこを真面目に検証するのも正直いってどうなんだと、いきなり挫ける仕様なんですよ。なんだよもう一生寝ていたい。え?Webサイトが改竄されてる?知らん勝手にしろ。

ただこれもまたゆっくり動画の受け売りになりますが、アリストテレス哲学で重要なのは、意識の焦点を外界の事実の方に当てたことだといいます。

超越的なIDEAを知ろうともがくより、まずはもっと見なきゃ、現実を。生え際はもう来ているんですよ!という経験主義。

アリストテレスによると先に「ある」のは、物理的実体だということです。形而上の法則(ここで「形而上」というワードがでてくるのですが)はそこから論理的に還元できる。

「あっ!この頭の形は…アンタ将来ハゲるわよ!」「いや俺はまだハゲてないから」「アンタの家系ハゲでしょ。私の経験からいわせてもらうけどもね、アンタの将来はハゲ!!地獄に落ちるわよ!」「だからまだハゲてないって!」

…なにしろ経験則なので言いたい放題ですよ。今からみるとかなり突飛にみえる形而上学、例えば占星術をしたりするらしいのです。

なんだかなと思いますが、ところがそれが近代科学の元になる。間違っていても、とりあえず仮説をたてるのは非常に良い習慣だと思います。

とにもかくにも、これがゴリラでもわかるアリストテレス哲学。そういうことにしておきたいと思います。この辺りは本筋ではないので、だいたい合っていれば問題ありません。

言いたいのは、この二つに分かれた流派が西洋哲学の歴史に連綿と受け継がれていき、近世になって「大陸合理論」や「イギリス経験説」に発展していったものを、一つに合体させたのがカントであるということです(同じくゆっくり解説動画より)。

話はそこから始めないことには、全くキリがありません。

ーーー本題はここからーーー

さてそのカントが提唱したのは、”認識には二つの軸がある” ということです。

ひとつは物理的なセンスデータの受容。もうひとつはそれを秩序づける悟性(understanding)。そしてその生得的な悟性は、”心的内容を能動的に構造化するうえで例外なく必要となる、いくつかの基本的概念を備えている” (※3) 。それがいわゆる概念=IDEAである、といいます。

シンプルですが、しかし分かりやすくなってきました。先の二つの流派が合体している様子も分かりますね。

加えてカントは基本的概念には時間や空間、否定、存在、実体といったカテゴリーが根源的にあり、それらはアプリオリ=経験に先行してあると主張しています。

ただ、…だからIDEAは外部の存在である、とは言わないのが彼が近代人であるゆえんです。代わりにそれらをやはり自己意識の内部に抱えることにします。概念創造とは把握・再生・再認という三段の総合による認識活動の一機能であるとするのです。

というのも、この頃には「概念」はすでに絶対ではないということが分かっているからです(※4)。『芸術には3通りある。』でも、「美」のIDEAが相対化された話がありましたよね。いくら僕のことを名誉毀損しても、その事実は揺るぎません。それでも地球は回っているのです。

つまり本当に「ある」のは、「私」という統覚・自己意識である。デカルトも『我思うゆえに我あり』と言っていました。外側のIDEAだけが「ある」のではない。

自己意識は物理的なセンスデータを秩序づけるなかで、外部の永続的ななにかに気づいているのだ。

そのように考えることで、自己意識を中心にして経験的な物理と永続的な存在=形而上の物事を共存させることができます。

そしてその内側の共存は、逆に外側の世界を認識するにあたって、物理上の物事と形而上のそれとを明確に分離させたと言えるのでは無いでしょうか。

先の彫刻を例にとると、それまでは「美」があって彫刻を作り出すのか?あるいは様々な彫刻のなかから「美」が見出されるのか?という物理上と形而上が混在となった答えのない問いしかありませんでした。

そこに、「ある」のは美しいと感じる「あなたの、心です」という認識を踏まえ、物理的には美術品とされた様々な物事があるものの、形而上には、ある時代にある人々がそれら物事を美術としてとらえたという事実だけが据え置かれる。

そんな理知的でしかしある種、醒めた認識がカント哲学にはあるのだと思います。

3. 理解・分解・再構築で国家錬金術師になる

ところで今さらですが「哲学」って何でしょうか?

例えばもし大学で哲学とは?というアンケートをとったら、6割くらいは穏健の「役には立たないけれど大切だよ派」ではないかと思います。2割が無関心の「昔の学問だよ派」、残りに擁護の「最高の学問だよ派」と急進「要らないよ、そもそも文系要らないよ派」がいるようなイメージです。今は急進派がちょっと勢力強いかも知れません(※5)。

それでなぜ今こうなっているのかというと、これもやはりカントの仕業なのではないかと思わざるをえません。

というのも、カント哲学が「哲学」における究極と至高の対決を完結させ、それから自説で主張した統覚・自己意識を近代最高の学問「科学」の対象から外したからです。

ですが、学問領域を独占するために意地悪で言っているわけではありません。考えてみれば当然で、形而上学が入りこむと仮定した人の意識の構造を、物理を対象にする「科学」が研究対象にできるわけがないからです。

要するにカント哲学は、それまで渾然一体となっていた「科学」と「哲学」を分離し、実験と検証のできる物理の「科学」と、判然としない意識を対象にする「思想」に分けたといえます。先に述べていた、外界認識における物理上と形而上の明確な分離です。

なので役に立つのは「科学」、文系なんてダセーよな、やっぱり時代はプレステだぜということになったのではないでしょうか。お陰で文明が進歩したというわけです。

ーーーめでたしめでたしーーー

ところが、話はここで終わりません。なぜならそれでも経験則に当てはめて、人の意識を「科学」しようとする人々が現れるからです。

これがつまり心理学、そして哲学から枝分かれした「思想」寄りの現象学ということになるのだと思います。

心理学といえば『エヴァンゲリオン』直撃世代にとっては、90年代に流行ったアレね、という印象が強い。名前だけは知っている心理学者フロイトやユング。「無意識の領域」「ニュータイプは伊達じゃない」といったオカルト込みの精神分析。フェストゥム因子やアダルトチルドレンといった精神病を患うことで搭乗可能になる巨大人型決戦兵器などなど…。

ですが「心理学創設の父」として知られるヴィルヘルム・ヴントが提唱した原初の「実験心理学」は、それらよりもう少し「科学」だったといいます。

というのも人の意識を研究するにあたって、おそらくその原子というべき着目点=刺激強度の最小差異から初めたからです。これは物理的観点からすると、神経細胞の活動電位(※6)と同一視できるかも知れません。

「意識経験」とは、ヴントによると、感覚器官が外部刺激を受け取り、そこから観念が僕達の内部に生じ、その補完物として感情が生じることであるといいます。それらは客観的な同一性をもつため、意識を「科学」できるとしたそうです。

急に話が難しくなったような気がしますが、例えば茹でガエルの話ですよね。

鍋に水とカエルを入れて徐々に温めると、高温になった次点で刺激を感じてピョンと跳んで逃げる。もしカエルが喋れたら「熱い!殺す気か!もう訴えてやる!」といって怒ってくるりんぱしていることでしょう。

それはもしかしたら別の刺激、熱々おでんを顔に当てられても刺激を感じてピョンと跳んで逃げて「熱い!殺す気か!もう訴えてやる!」といって怒ってくるりんぱするという意識経験になるかも知れません。

ちなみに僕はこれと同じことを文学の範囲で提唱した人を知っていまして、夏目漱石といいますが、彼の『文学論』という著作を参照していただければと思います。つまり現実世界の意識経験と、文字情報による刺激の相似について考察した物です。

心理学はしかしその後、それらは機械的であるとして「思想」の方へブレて、フロイトらのような精神分析に傾倒したかと思えば、再度「科学」へ戻って行動だけを研究対象にするのだといって行動主義心理学になってみたりと忙しい変節を繰り返すようです。

参考図書にしている『現象学入門』ではそこにはあまり触れず、ヴントの実験心理学を更新したのはゲシュタルト心理学だと指摘しています。

4. キャラクターとゲシュタルトのおしゃれカンケイ

ゲシュタルトといえば、ゲシュタルト崩壊。意味がよく分からないのに、面白ネタとしては秀逸なため言葉だけはよく知っているアレです。

wikipediaによると「ゲシュタルト崩壊」とは、”全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt,形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象” とのこと。同じ言葉が繰り返されるとそれが元々なんだったのか分からなくなるというクダリでよく出てきます。

要するに「ゲシュタルト」とは、全体性を持ったまとまりのある構造のこと。僕達は通常そのまとまりを観念として知覚している。それを主張したのがゲシュタルト心理学だといいます。

ここでようやく「キャラクターであるとは?」問題の片鱗がみえてきました。

分かりやすい一例がメロディですよね。たとえ一流芸能人の選ぶストラディヴァリウスで弾くチャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35であっても、映す価値なしが選ぶ5万円のバイオリンで弾いたそれと、メロディとしては違いはありません。目隠しして聴いたらむしろ5万円の方に感動するかも知れないじゃないですか。

その一方で、曲中のドの音を数えてその回数分連続で鳴らして次にレの音を数えて…と合計して鳴らし終わった後ドヤ顔されても、それはチャイコフスキー(略)にはなりません。非常にうるさくて、迷惑なだけです。

ゲシュタルト心理学はその知見から、先の実験心理学が神経細胞の活動電位と意識経験を同一視していたのに対して、物理的な外部刺激が一対一対応で観念を作り出すと単純には言えないと修正しました。

あるいは、電気的な刺激の合計が観念になる訳ではない。

すると物理的な側面から意識を「科学」するのはやはり不可能、カント哲学に逆戻りか?と思えるのですが、ゲシュタルト心理学者のヴェルトハイマーはこの「まとまり」、形態の構成に法則があると提唱します。

その法則とは、例えば連続した2点の点滅が1つの光球が移動するようにみえるファイ現象

[● ○]→[○ ●]→[● ○]→[○ ●]→[● ○]

位置に応じて諸要素を全体へと取りまとめる近接の法則

bca efd hig klj nom qrp tus (←bcaの塊、efdの塊 etc. と認識する)

などでして、よく考えるとこれらはすっかり生活に馴染んでいるテレビの原理や、いわゆる「デザイン」の法則(※7)のことです。僕達はなぜゲシュタルトが観念になるかは「科学」できないのですが、現在それを法則立てて利用・応用はしているという訳です。

そしてこれは、さんざんネタにしている漫画やアニメもそうですよね。止め絵の連続で動きが表現されていたり、動画の編集で効果が作られている。

その中で活躍するキャラクターも、もちろん同じだと思います。

全身赤いスーツとか、金髪とか、通常の3倍速で強いとか、ミステリアスな魅力重視で戦闘中も目線を隠す兜をしているとか、一つ一つの要素だともしかしたら宇宙を股にかけるスペースコブラになりそうな所が、全体をまとめるとちゃんとガンダムのシャアというゲシュタルトが創発されるということになっています。

5. よくわからない現象でも活用できれば問題ない

ところで念のためお伝えしておきますが、今回参考図書にしている『現象学入門』は、キャラクター創出について経験的に説明している著作ではありません(※8)。

現象学の創設者フッサールの哲学がハイデガーやメルロ=ポンティ、ジェームズ・J・ギブソンらを通して、生態心理学や身体性認知科学へと発展しているという内容です。翻訳すると、今話題にしている「現象学」は流行りの人工知能・AIの研究につながるという話。

ですが人工知能といってもキャラクター、いわゆるドラえもんを創る話ではありません。人間の役に立つロボット、例えばiRobot社のお掃除ロボット・ルンバを創るという話です。

ここの違いが重要で、このまま『現象学入門』のあらましを見ていくことで、逆にキャラクター『九条いつき』が何者かを解き明かすヒントになるという予定です。

そういう訳なので今はよくわからなくても、最後には納得していただけると思います。まずはこのまま大元のフッサールからかい摘んで話をすすめますのでもうしばらくお付き合いください。

ーーー休憩タイムーーー

さて。フッサ、フッサール…多分髪が長い人ですよね。きっと天然パーマに違いありません。

最も体系的に記述されている原典は、1913年に出版された『イデーン———純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』だそうです。大きめの本屋に行くと上記の著作が売られています。たださすが天然パーマ哲学者、何もかもが長い。タイトルも長いですが、それ以上に巻数が長大です。

そんな超大作なのですが、それを一行でまとめると、人の意識を「現象学的方法」で考察するという内容だそうです。ちなみに「現象学的方法」とは、形相的還元と超越的還元の2種類があるとのこと。

なんだこれは意味がわからない…となりそうですが、形相=エイドスはアリストテレス哲学で、超越はプラトン由来のIDEAのことだと思います。

つまり「現象学的方法」とは、カント哲学をそのまま受け継いで、経験的な知覚とアプリオリな概念の生成について、それぞれ別個により詳しく研究するということだと思われます。それほど難しくはありません。

ただカント哲学との違いは、もはや概念を固定的な「IDEA」とはしないことです。『美味しんぼ』は完結したので、次は『魔法科高校の劣等生』を放送するということだと思います。

固定的な「IDEA」とは違い、概念は時とともに移ろいゆく可能性がある。ここの所は写真展『兆し、或いは魔の山にて』をご覧になった方であれば理解しやすいと思います。

フッサールはそれを名付けて「ノエマ(noema)」とし、意識の構造を以下、分析します。

1. まず意識の中で、仮説としての「ノエマ」が立ち現れる。例えばリュックを見て、これはリュックのように思えると考える。

2. 次にセンスデータの外観が志向された意味を”充実”します。つまり各部の観察によって得られるヒントから徐々にこれはリュックであると再認識します。

影絵になって出てきた物に対して一灯ずつスポットライトを当てていって最後に正解を当てる、というようなイメージでしょうか。部分的なパースペクティブを射影(adumbration)する、と説明されています。

3. そしてもしスポットライトを当てている途中で仮説とは違うと判断した場合、例えばリュックだと思っていたものは夕陽の色だったのかと理解すると、リュックの「ノエマ」が爆発し、それは夕陽の色という「ノエマ」に書き換わるということが起きるのだ、といいます。

実はフッサールも天然パーマではなかった…という説があります。

6. 写真展は伏線だった説

フッサールが提唱する意識の構造モデルは「科学」ではなく、あくまで「思想」です。信じるか信じないかはあなた次第!なのですが、僕は二つの観点から面白いと思えます。

1つ目は、それが実際の体験かバーチャルな体験かを測る目安になるという観点です。

たとえばの話、実体験の”充実”度合いが平均85%だとすると、写真や映像など間接的な体験の”充実”度は平均40%くらいじゃないですか?(※9

もちろん普通に生きていれば、手品に騙されたり未来人に絡まれたり、大魔王に狙われたりすることの二つや三つはあるかも知れませんよ?ですがあらゆる可能性をはらむ現実と、なんでもありの夢とは、それでも完全に混同できないというか。

フッサール自身は「ノエマ」が完全に”充実”することは無いと断っているそうです。先述した漱石の『文学論』では、文学体験を実体験と同程度かそれ以上になる可能性を論じていました。僕としては、真実はいつもひとつじゃないのと9割くらい信じています。

つまりこの観点からは、「存在」の構造について疑問を投げかけられますよね?

2つ目は、仮説が立ってから意味が”充実”するまでに時間がかかるという観点です。

またたとえばの話、時間が経てば経つほどそれだけ「ノエマ」のヒントが得られるわけなので、仮に無限大に時間があれば、完全な「ノエマ」を”充実”できるでしょうか。それとも過剰なヒントは、次々に新たな「ノエマ」を生じさせてゲシュタルト崩壊を招く結果になりはしないでしょうか。

この観点からは、直接的な問題は「時間」ではなく、時間を通して得られる情報量が問題なのではないかと思えますよね?

イントロ・ドンクイズで、音階データは一瞬しか得られなくても、番組プロデューサーの好みがわかっていれば正解の曲をある程度予想できるのと同じことです。

ところでこの情報量によって概念をつくりだす話で思い出すのが、ビッグデータで学習させる人工知能・AIです。

最新のフォトショップなんか凄いですからね。2021ver.だと一枚の風景写真からボタンひとつでモノごとに切り分けて、一点一点丁寧に切り抜きができるそうです。つまりAIがモノを認識して、焦点を合わせることができるようになってきている。

そんな魔法みたいなことが可能になった背景には、大容量動画データがあるのだと思います。

分かりやすい例でいうと、カメラの「瞳フォーカス」です。黒い点が2つ並ぶ特徴的な動きを検出して、それが瞳と認識してレンズを動かして焦点をあてる。マスクで認識しないあたり、口と合わせて3点というのがより正確かも知れませんが(※10)。

それは撮影時にレンズ前の風景を動画として撮影して、テンポラリデータを蓄積しているからできることですよね。もし静止画データしかなかったら、黒い点が並んでいても機械がそれを検出できないか、とんでもない所に焦点をあてると思います。

7. 存在と時間?どこかで聞いた気がする…

というわけで、ビッグデータを記憶・学習させたことで応用範囲の広い認知が可能になって直感的にかなり知的になってきたAIが存在する現代ですが、それは現象学が提唱する意識構造モデルが実験・検証された結果だと言えるかも知れません。

それに対して、初期の人工知能研究者が「何の成果も!!得られませんでした!!」と絶叫していたのは、行動主義心理学と同様の方法で意識を再現しようとしていたからだ、と『現象学入門』では指摘しています。例の「科学」にブレた心理学です。

行動主義心理学は意識を研究するにあたり、心ではなく物理の行動に焦点をあてます。

具体的には、”信念や思考などのように観察不可能な心的原因という見地から行動を説明することに反対” (※11)します。すると「科学」が可能になる。環境をアーキテクトすれば、既知の法則によってネオの行動は自ずと決定されるのだということかも知れません。

それとちょうど対になるように、人工知能の開祖アラン・チューリングは有名なチューリングテストを考えます。人間が対話している相手を人工知能ではなく人間だと勘違いすれば、その奥で実行されているのは意識をもった知性であるということにします。要はガワ重視です。

個人的には、正直このテストにも納得できませんけどね。もしオジサンが美少女VTuberをしていたとして、その美少女VTuberに一瞬勘違いさせられることはあっても、そんなの”充実”度3%ですよ。だから中の人を知りたがるんでしょと言いたいです(人によっては97%になることを否定しませんが)。

そんな憤慨はともかく、そのままでは人工知能としての成果はでなかったチューリングコンピュータは、より高性能に発展しました。それがまた新しい心理学、認知主義心理学を生んだそうです。

つまり脳はハードウェアであり、心はその生得的なハードウェアを使って外部刺激を計算するソフトウェアと考える(※12)心理学。

このソフトウェアがいわゆる「精神」。みんな大好き精神病が研究対象になりますよね(※13)。今ではこの認知主義心理学が現代では主流だとか。

確かに現代で人工知能というと、このソフトウェアを精確に組んで人の精神を完全に複製するというようなイメージがあります。

ところが、では、ということででてくるソフトウェア人工知能。少なくとも2021年の段階では知性とは言い難いものが多い。

やれチェスのグランドマスターを倒しただの、やれ将棋電王戦でプロ棋士が負けただの宣伝はするけれども、それって要は大規模データベースの高速検索ですよね?

これがもし、対戦中にプログラムバグを突いてくるプロ棋士への対抗策を自分で編み出して差し手を変える、ということであれば凄い知性ですし、勝利後にインタビューに応えてマイクパフォーマンスしてくれるというのなら、それは完全に知性のザ・デストロイヤーだと言えると思います。ですが今のところは横のマネージャーらしき人(笑)が代わりに答えることになっている。

つまり知性・意識の最低限には、外部環境への応答機能が備わっていなければならない。

『現象学入門』ではそれこそがハイデガー的人工知能だ、と論じられています。今度という今度は、本当に人の役に立つロボットができてしまいました。

8. 外部環境との応答が知性である

そこで登場したのはしかし、夢の友達ロボットではありません。

現れたのは、鬼ヶ島で軍事行動して帰ってくるサーバント。ボストン・ダイナミクス社のロボドッグ、アイ・ロボット社の(サ)ルンバ、アメリカ空軍自律型ドローンのスカイボーグ。そしてそれらを従えたマスター、ハイデガーさんが最強の鬼としてこちらにやってくるだったのでした。

…ベイルアウトオオオ!!!

いや確かに凄い。ドローンなんかもう本当に戦闘実績を積んでいるっていうんですよ(※14)。でも何故こうなってしまったのでしょうか?なんだろう…急に『ターミネーター』始めるの、やめてもらってもいいですか?

ーーー休憩タイムーーー

攻め込まれるまで時間がありません。そこでハイデガー的存在論をひとことで言ってしまえば、それは「成功哲学」だと思います。

ハイデガーは20世紀最高の哲学者とか、その著書『存在と時間』は最難読哲学書のひとつとか噂されているそうです。そのため現実には影響を与えない象牙の塔の存在と一瞬思える。しかしよく考えると、その哲学をベースに現実にロボットが動くくらいです。ジャンルは「思想」であっても、実態はビジネス書のような実践的な内容のはずです。

なので、始めはその内容がハイクラスの間でイズムとして消化されて、徐々に僕たちのところに届くようになっている。それこそシャンパンタワーのトリクルダウンのようにです。

そういう仮定を踏まえて解説書をみると、なんとなく理解ができるようになっているのではないでしょうか。なぜならその内容は、既に僕達の間でうっすらと伝播されているからです。

ですがここから先はかなり高濃度な内容になりますので、注意してください。いいですか?じゃあいきますよ?

成功哲学者ハイデガーにとって外部環境とは、モノである。

ハイ、これで帝愛グループの利根川にエスポワールで叱咤されるカイジの気分が味わえますよね。味わえませんか?味わえないという方は、一番はじめの考察『写真には3通りある。』に戻ってみてください。

僕は被写体を3つに分けて考えました。人・物・風景です。つまり外部環境にはその3種類があるのではないかと考えていたのです。

ところがハイデガーにとっては、そうではない。ドイツ語でZeug、英語でstuff、日本語でモノ・道具、それが全て。

“Zeug”は実際に道具として使われているものから、将来道具として使われる可能性があるものまで全て含むので、死角はありません。無敵です。

つまりハイデガーは、無敵のブツ撮り専門カメラマンということです。

…そして”Zeug”を2種類に分けます。使用者がそれを使用して没頭している状態が「道具存在」であり、我に返って客観的に意識してそれを見る状態が「事物存在」であるといいます。

ですので、ハイデガーは無敵の「ブツと…風景もたまに」といっているカメラマンです(断定)。

そんな馬鹿な———。

と思いますが、よく考えてみると確かに人と物を杓子定規に分けるのは案外難しい。

例えば化粧品広告のモデル撮影。被写体は確かに人物なのですが、カメラマンとしては肌を美しく撮るのが仕事で、被写体としてはモノとして見ている。逆に、モノであるモデルを撮影しているのにそれが生きて動いているキャラクターかのように撮る例もあって、趣味のガンダムプラモデル写真なんかがそれですね。

そこでしかしハイデガーは、外部環境をモノで統一の方にbet。花京院の魂をかけるぜという訳です。

なぜなら、その方が可能性がある。

ハイデガーにとって外部環境、「世界」は使用可能なモノとして開示されているのです。外部環境とは、使用者が能動的に関与して使用する「世界」か、逆に「世界」の方から誘因される受動的な関与、情態性をもった使用となる状態か、どちらかだといいます。

そしてハイデガーにとって最も現実味のある「存在」、「現存在」とは、”前認知的であり、技能的で身近で、情態的で、目的のある気遣いによって構成されている” (※15)モノなのです。感動のO・MO・TE・NA・SHIです。

ハイデガー哲学はカント哲学よりも血が通っていて人間らしさを感じます。心理学の影響があるのかも知れません。

9. 人を見たら道具と思え!金は命より重い・・・・・!

でもこれが20世紀最高の哲学者だって!?なんたる暴言・・・ッ!といいつつ鉄骨を渡りきって共産主義革命をするのはちょっと待ってください。

というのも、ここにはある種の真理を含んでいるとも思えるからです。

ハイデガーは師となるフッサールから直接学んだという歴史的事実があり、その哲学には現象学の側面があります。意識の構造について深謀遠慮がされている。帝愛会長のような単なるサディストの思いつきではないからです。(帝愛会長もハイデガー哲学者かも知れませんが)。

そこで再度意識の次元に立ち返ってみると、意識の構造としてまず、1. 前認知的な「ノエマ」が現れるとの主張をフッサールがしていたのを覚えているでしょうか。

では、その仮説「ノエマ」はどこから発生するのでしょうか?知識からか、経験からか、はたまた記憶からでしょうか?

ハイデガーはそれを「使用可能性」から発するとしました。

それが件の”Zeug”ということだと思います。僕達は何かを認知する時、予めそれが「使用可能」であると理解していなければ、そもそも認知することができない。そういう意識の構造を元にしている、それがハイデガー哲学だという訳です。

このことは幼児を観察しなくても、大人の僕達で実験が可能なことです。

例えば僕が飛行機の操縦席に座ったとして、ズラリと並んだ計器やスイッチが目に映る。けれども僕にはそれが何をする為のものか分からない。

体感で高度が落ちているのは分かる。ハンドルはわかるので握る。どうにかしようと動かしてみる。地面に衝突!実は緊急脱出装置のボタンは目の前にあった、というような。

ーーーコンティニューしますか?ーーー

こんな時、僕のように死んだりせず、元からある「使用可能性」を最大限に活用することができたらどうでしょうか?全てが道具であると考えることで獲得する情報量を増加させ、他人よりも認知の時点で上回る。

…それこそ「成功哲学」ですよね?

この哲学は特に資本主義と相性がいいと思えます。資本主義社会では、人を使用可能な一機能としてとらえ、役割分担するからです。

そんなハイデガー的存在論を踏まえたメルロ=ポンティは、そこからさらにその「使用可能性」が身体を起点にしていると考え、例えば手に対するハンドルの誘因性について考察を進めます。それがジェームズ・J・ギブソンのいうアフォーダンスへつながります。

そしてさらにその研究成果が、先のハイデガー的人工知能で構成されたスカイネットにつながったというわけです。

「これが“運命石の扉”(シュタインズゲート)の選択か———!」

「じゃあやっぱり共産主義革命じゃん!」「U・S・S・R!U・S・S・R!」「いやちょっと待ってください、まだ謎は全て解けてない。そんな世界の中で、キャラクターとはどんな存在といえるかが、まだ答えられていないじゃないですか!」「ヒト…サイゴノキボウ…」

10. 『九条いつき』は、使えない。

ところが残念ながら、ハイデガー哲学では語られることすらないキャラクターに希望があるとは言えません。なぜならそれらは「使用可能性」の範疇から外れた「存在」、「使用不可能性」に満ちた「存在」ということになるからです。ハイデガーがそれを重視しないのは、まったく無理もないのです。

キャラクターというレッテルは、人の思い通りにならないモノにこそ貼る。それこそが太古アニミズムの世界です。

現代でも、例えば台風なんかがそうですよね。暴風現象に数字や名前をつけたりします。ですがもし、その雨風を人が自由に調整できるとしたら、余計な被害が出る前に適量で雨が降るように変更すればいいだけです。であれば、そんな現象にわざわざ名前をつけません。

「要するに『九条いつき』みたいなものは、台風と同じということだろう、けしからん!」

説明終わり。

…という訳で、ハイデガー的存在論が人の意識の構造にとっていかに堅固かを見てきました。

そんなハイデガー哲学がトリクルダウンしている現代では、個性と自由の謳歌を支持する左翼と、国家と協調性を支持する右翼に分かれるような社会モデルはもう昔の話ですよ。

目下のところ、使用不可能性にみちた存在である「キャラクター」は新自由主義の敵であり、ハイデガー的存在論に与する国家経済からは排除される。そのような志向性にある。そういえるのではないでしょうか?

そしてそれが人の意識の構造であるが故に、資本主義だろうと共産主義だろうと「キャラクター」排除の方向性は、結局変わらないように思えます。

しかしもちろん、ここでそれを追認するつもりはありません。というよりも、そのハイデガー的存在論の綻びは明らかなのでいちいち指摘するほどでもない、というのが実情ではないでしょうか?

なぜならその「成功哲学」は自壊的だからです。そしてその自爆スイッチを解く鍵は、モノに付随する「使用可能性」そのものにある。

そういってもあまり通じないと思いますので、具体例としてハイデガー的存在論の領袖である「フェミニズム現象学」が自己矛盾し自壊している様子をさらっと流したいと思います。

ーーー移動しますか?ーーー

「フェミニズム現象学」、聞いたこともないような言葉です。確立されたのは、1980年に提出された『女子のように投げる』というアイリス・マリオン・ヤングの論文からだそうです。

戦前からの女性差別撤廃運動とは少し異なる内容。それが昨今になってtwitter界隈などで話題をよんでいる「フェミニズム」、その裏側にある「思想」といえるのではないでしょうか。賛否分かれる議論になっています。

『女子のように投げる』ですから、一例として恒例のアイドルノーバン始球式、その投球フォームが男のそれとは異なることが多いことを思い出してください。いわゆる女子投げですよね。

ヤングによると、その現象の原因は「男性の視線」だそうです。

つまり、男性は自身の身体を「使用可能」なものと認識していて、自然に行為の主体になる。それに対して、女性は行為の主体でありながら、その自意識のなかに”見られるひととして経験する” 客体を同時に持つという訳です。そのため、”女性はその身体において非連続的な統一を経験する” (※16)。それがあの非効率的な女子投げ動作の正体であるといいます。

言い換えると、女性は男性によって自身の身体の「使用可能性」が阻害されている、ということです。一面の真実を含んでいると思えます。

しかしでは、その「不平等」を解消するためにはどうするのでしょうか?かなり不毛な問いのように思えます。ボール投げ程度であれば練習で矯正すれば足りるでしょう。しかしそれが昨今のようにエスカレートするとどうでしょう。

最終的には男性を根絶やしにするか、あるいは女性そのものを否定、自身の意思通りに動かない女性の身体という「使用不可能性」そのものを否定するしかなくなるのではないでしょうか?

これと同じことはあらゆるマイノリティに対していえることですし、逆にメジャー、例えば国家や巨大なグローバル企業であっても同じで、自己の「使用不可能性」の排除は、最終的には自壊に至ると思えます。

なぜなら成功哲学者のいう「使用可能性」とは、生物としての自己意識という「世界にひとつ」の価値に依存するからです。

…僕はなにを言っているのでしょうか?

11. キャラクター『九条いつき』とは何者か?

前回の『「シュレーディンガーの猫」という問題とその答え;』で「世界にひとつ」の価値、それは「生命」です!という至極平凡な結論に至った結果、僕が誰からも相手にされなくなったのを覚えているでしょうか。

しかし改めて糾しますが、あらゆる価値観は「世界にひとつ」の価値、「生命」から秩序づけられるわけです。

そして「使用可能性」=「機能」は価値そのものではない。それはあくまで価値を増幅させる機関であるため、あらゆる「機能」は生物としての自己意識という「世界にひとつ」の価値に依存するといえる。

これを現象学的にいえば、フッサールのいう「ノエマ」とは「使用可能性」に開示された世界だけから創出されるという訳ではない。それと共に「使用不可能性」という自己意識からも同時に創出されるのだ、ということです。

そしてそれらが「ノエマ」の価値と、それを活かす機能性の源泉となる。そんな風にいえるように思います。

…まあ平たくいうと、「命あってのモノダネ」ということです。

女性あってのフェミニズム、人あっての企業活動です。これもまたごく当たり前なのですが、ハイデガーのいう「道具存在」に没入しているとそれを忘れてしまう。そんな事があるのではないでしょうか。

ーーーエピローグーーー

これでようやくキャラクター『九条いつき』とは何者か?問題に戻ります。

というのも、自己意識を含むキャラクターとは、ハイデガーの指摘する通り本質的に「使用不可能性」に満ちています。

ところがその「使用不可能性」があるからこそ、価値・機能性の交換が可能になる。そしてそれは自己意識保存に由来する「世界にひとつ」の価値が、完全には”充実”され得ない概念である他者に投影された時でなければならない。

…そういうことを言いたいわけです。

前回の結論、「世界にひとつ」の価値は「生命」であるというだけでは、なぜ「譲渡」をするのか?という点が今ひとつはっきりしていませんでした。これで宿題を果たせたと思います。

ということで、『九条いつき』もそのような個性/キャラクターとして理解していただけると幸いです。よろしくお願いします。

これ次の完結篇みてからじゃないと伝わらなくないか…?

注)

  1. イマヌエル・カント著『純粋理性批判』が出版されたのは1781年(第一版)。大幅に手を加えられた第二版が出版されたのが1787年
  2. ステファン・コイファー、アントニー・チェメロ著『現象学入門 新しい心の科学と哲学のために』勁草書房,2018
  3. 同じく『現象学入門』より
  4. 『現象学入門』ではカントが不一致対象物(二つの鏡像が概念的に同一でありながら互いに一致しないこと)について議論している旨、指摘している。ただしこの論述の仕方は勢い重視でやや不正確である
  5. 国立大学法人運営費交付金を取り巻く現状について 』- 文部科学省ホームページ(2020)によると成果主義の予算配分で科学技術イノベーションの推進が中心。。。
  6. 活動電位』とは、なんらかの刺激に応じて細胞膜に生じる一過性の膜電位の変化のことである
  7. Robin Williams著『ノンデザイナーズ・デザインブック』[第4版]マイナビ出版,2020によるとデザインには4つの基本原則(コントラスト・反復・整列・近接)があるとのこと
  8. キャラクターメイキングに興味のある方は、『大塚英志』で検索するのを個人的にお勧めします
  9. フッサール哲学に”充実”度という単位がある訳ではない。造語である
  10. 3つの点が集まった図形を人の顔と見る脳の働き『シミュラクラ現象』が有名
  11. 同じく『現象学入門』より
  12. 認知心理学』を参照
  13. 精神病が市民権を得たのはTV版『エヴァンゲリオン』の負の遺産だと思っていて、素人が安易に精神病名を振りかざすのは本当にやめておいた方がいいと思います。。。
  14. リビアでトルコ製の自律型攻撃ドローンで初の人間への攻撃か:国連が報告書』-Yahooニュース(2021/06/07)
    ソース:”MILITARY DRONES MAY HAVE ATTACKED HUMANS FOR FIRST TIME WITHOUT BEING INSTRUCTED TO, UN REPORT SAYS” – THE INDEPENDENT(2021/05/31)
  15. 同じく『現象学入門』より
  16. 同じく『現象学入門』より。。。

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