Life

それは「世界にひとつ」を探す旅 ———
■ シュレーディンガーの猫という問題とその答え;
現代アート作家です。「原典と複製の関係性」をテーマとした作品づくりをしています。世界にひとつを個人でつくる。そのためファンドレイジングなどはいかがでしょうか?積立額を公開しています。などといっています。
なのですが、分かりづらく響きも悪いせいか「詐欺じゃないの」とか「ネズミ講でみた」とか「西野?」とか言われがち。そこは実際にご体験していただいた方が早いので、お試し版となるレギュラー展を随時実施しています。
しかしここでは一応の説明として、それらとは違う試みをしていることを解説し、ついでに『シュレーディンガーの猫』という思考実験で提起された問題を解決に導きたいと思います。
はたして「世界にひとつ」は「個人で」つくれるのでしょうか?
1. 形而上と物理上
僕は『世界にひとつを個人でつくる』問題と『シュレーディンガーの猫』という思考実験には共通する問題があると思っています。それをひとことで言うと、
「形而上と物理上の違いは看過されがちである」
ということ。ちなみにこの「形而上」に照応するのが「物理上」です、と補足しておきます。
まず物理についていうと、次元というのがありますよね?タテ×ヨコ×高さで3次元、時間を合わせると宇宙は4次元やで、みたいな。これが実は方便なのはご存知でしょうか。この考え方はニュートンが支配する古典物理の世界になります。
それをアインシュタインが相対性理論で覆してからもう100年経っています。どう覆したかというと、光速度だけが普遍で時間と空間は相対的に変わるぞという、宇宙関係の話でよくでてくるアレです。
それを元にブラックホールを予言してそれが実際に観測される。ドーナツの穴みたいやな、みたいなことが現実に起こっているのが今ですよね。
これはつまり、光速度を物差しとして時間も空間も同じ平面上として考えることができるんやで、ということ。タテ×ヨコ×高さに時間も全部ひっくるめてE=mc∧2の平面上で考えることができるで、一緒やで、ということです。神様からみたらそういう平面上の宇宙に僕たちは住んでいて、それが「物理上」です。
それに対して、全く次元を別にして「物理上」には存在しないのが「形而上」です。
この「形而上」とはなにか?
形而上学(けいじじょうがく、希: μεταφυσικά、拉: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である – wikipedia “形而上学”より
という事で、概念や論理で構成されている次元であって確かな物理ではない。円周率は無限に定まらないけれども円は描けるし、真球は地面に接触しないけれどもサッカーボールは急に転がってきます。なので机上の空論とされることがあります。
ですが先ほどもいった通り、「形而上」の論理は「物理上」の実際と鏡のように照応するんですね。
たとえば科学はいうなれば「物理上」の世界を観察して「形而上」の法則を探る学問です。見つけたその法則を物理上で再現して色々物を作ったりするのが技術。
物理平面に住む僕たちは、鏡に映る形而上面の像を観測したり、それを使って日々の生活に役立てている。そういうことがあります。
2. 現代は物理上に量子コンピュータができている
続いて『シュレーディンガーの猫』について。
これは物理学者のシュレーディンガーさんが考えた思考実験、つまり「形而上」の話です。厨二病アニメに結構でてくるので僕みたいなバカな男子はよく知っているけれども、知らない人は聞いた事もないかも知れません。詳しくはググって頂ければと思いますが、要するにシュレーディンガーさんが言いたかったのは
「いや、ネコ死んでると生きてるで “重ね合わせ” な訳ないやろ」
というツッコミですよね。いくら量子の挙動が確率的にしか分からないからといっても、ネコがどちらでもある”重ね合わせ”状態ってなんやねん。オフホワイトかい、という。
しかもそんな事を言ってモメていたら、量子コンピューターの方が先に物理上にできている。現代の物理科学凄すぎないですか?
3. “重ね合わせ”とは?
〜前回のあらすじ〜
電子の挙動が太陽の周りを廻る惑星のような軌道計算では求められず、確率分布するとした”波動方程式”を手に入れた天才シュレーディンガー。
しかしそこへ現れた賢者の孫「それって同時にどこにでもあり得る、”重ね合わせ”って意味だよな?」の発言で事態は急変!箱に閉じ込められた仲間のネコが生死の境をさまようオフホワイトになってしまったのだ!
ネコを助けるか、波動方程式を捨てるかの二択を迫られ窮地に立たされるシュレーディンガー!
そこへ仮面の騎士エベレットが登場。ネコが生きている世界線と死んでいる世界線に分かれるとするバラ色の多世界解釈を投げ入れたことで遠巻きに見ていた中二病患者が多数狂喜して参戦、舞台は大混乱に!
だがその時、暗転した舞台に科学武装集団グーグル先生ほか一味がスポットライトで照らされながら”重ね合わせ”を実用化した量子コンピュータと共にせり上がってきたのである。←絶対強い
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過去改変定期、ということで。
簡単にいうと、シュレーディンガーとしては「形而上」生きていると死んでいるで”重ね合わせ”になるわけないやろと言いたいところ、「物理上」“重ね合わせ”が実用化されてしまってなんやねん?ほならワイのネコはオフホワイトかい?という状態になっているという話でした。
それで改めて”重ね合わせ”について考えてみたいのですが、それがきれいに視覚化されているのが浜松ホトニクスの『単一フォトンによるヤングの干渉実験』(1982)。粒子の状態であるはずの光子が波の性質である干渉縞をつくるというアレです。デジカメの使い方が悪いのか僕の写真も干渉縞がよく出てしまいます。
これはなんでかな?と思うのですが、ここで時間も空間も同じ平面上として考えることができるんやで、という上述アインシュタインのE=mc∧2物理平面の話を思い起こすと、それと同様、本質的には同じ物なのに僕たちが先入観で見方を変えているだけなのではという風なアイデアが浮かびます。
粒子も波も実は同じ物理現象であって、それが違っているように思っているのは僕たちだけである。
例えば、”重ね合わせ”の状態は「失敗」と「成功」みたいなものだと言えるのではないでしょうか。それぞれの状態が全く異なるように見えるため「失敗」「成功」は分けて考えますが、その本質は実際に起きていることだけです。真実はいつもひとつ、人間万事塞翁が馬。
成功しているように見えてその実、後から考えるとそれが失敗の元であったり、失敗したと思ったらそれが案外、成功につながったりします。禍福は糾える縄の如し。宇宙ひも理論です。
4. シュレーディンガーの猫は”重ね合わせ”になるか?
この推測は言いがかりのような物かも知れません。しかし仮にそういうことだ、として話を進めたいと思います。なぜなら一番の疑問は箱に閉じ込められたネコの生死にあるからです。猫は”重ね合わせ”になるか?
結論を先に言ってしまうと、それは”重ね合わせ”にはならないのじゃないかと思っています。
例えば「失敗と成功」をすごく卑近な話ですが、展示会で考えるとどうでしょう。
可能性1.誰も来ないし売れもしない
可能性2.作品が一点くらい売れて嬉しい
可能性3.店長が無実の罪で逮捕され作品も全て押収されてしまう
のどれかが可能性としてあげられます。とすると、失敗と成功は
【失敗】誰も来ないし売れもしない
【成功】作品が全点売れて嬉しい
このように定義できます。二進法のコンピュータでいうと0か1。
ですが実際は結果がもっとグラデーションになるだろうということがあります。人が結構きてくれたけど売れてないわとか、売れたけどそれは反社会勢力の人だったことが分かって怒られるとか。そのグラデーション具合を計算にいれてしまえるのが量子コンピューターだとか。
ただ、この「失敗と成功」のレイヤーは展示会が無事執り行われているという観点からいうと同じです。”重ね合わせ”なのでどちらの状態でも実はそれほど問題ではありません。僕が一喜一憂するくらいで、たとえ「失敗」してもまた反省して次につなげればいいのです。
それに対して
可能性3.店長が無実の罪で逮捕され作品も全て押収されてしまう
こうなると、ただ「失敗と成功」の「失敗」というだけでなくなってきます。周囲の人にも迷惑をかけてしまいますし、プロジェクトの継続にも疑義が生じてしまう。
つまりこれはただ「成功/失敗」というよりは、展示会の「生/死」につながるレイヤーの問題です。「生/死」は「成功/失敗」との照応関係はあるようだけれども、実際はそのレイヤーとは次元が異なる。
このような状態は、始めに触れた「形而上」と「物理上」の関係と酷似しています。
さらにこれをもう少し観察していうと、この「生/死」を決める次元では「選択的な決定」が形而上面でいう論理と同じ役割を果たしているのでは?と思えます。
「決定」といっても、「選択的な決定」をするのは誰でもありません。例えば第三者である警察かも知れませんし、周囲の人かも知れませんし、あるいは作者である僕かも知れません。僕は生きることを選択しても第三者が死を選びそれが優勢になって物理上に死として照応するかも知れませんし、逆に第三者が死を選んでも僕の生きるという選択が優勢になり物理上に生として照応するかも知れません。
そのような「選択的な決定」の次元が物理平面とは部分的に照応し、交差するようにあると仮定する。
すると件の思考実験で箱に投入されたラジウムの”重ね合わせ”状態と、ネコの生死は次元が異なる問題となります。ミクロとマクロは異なる結果となり、ネコは無事オフホワイトにならなくて済みます。
それは僕たちが生死すら不明瞭なバーチャル存在ではなく、生きている間ずっと自身の力で「生きる」という意志を持ちまたは何者かに「生かされている」存在であるという世界なのです。
…というのが僕の形而上な仮説です。
ただ量子からマクロに移項する際に働く謎の力はすでに物理で観測されていて、いわゆる”対称性のやぶれ”であるとされております。おそらく生命の起源はそこにあるのだろうと予想できます。
5. 「世界にひとつ」の在処
ということで、長々と『シュレーディンガーの猫』の話をしてきました。それはなぜかって?もちろん「生命」こそが「世界にひとつ」たりうるからです。ものすごく今更ですが、僕もあなたも「世界にひとつ」。別に特別なことはないですよね。
では、「生命」でない「作品」が独力で「世界にひとつ」たりうるにはどうすればいいでしょうか?
それはもちろん、「生命」を模すことです。
まず「形而上」の在り方があります。生があって死があると定義します。細かいことは概念作品の「原典と複製」で述べていますので、説明は省略。「物理上」は様々な形態をとってしまうに違いない「作品」ですが、この「作品」の「形而上」の論理を操作します。
そんなことが可能なの?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、例えば政治的な決まりごとがそれに当たります。消費税を10月から10%にするで、と安倍さんが決めてそのように法律に書かれる、すると実際に僕たちの生活が消費税10%の社会になります。法律という「形而上」の論理を「物理上」の生活にある程度の強制力をもって照応させているからです。
したがって例えば「形而上、複製不可能」を作りたい場合は、複製不可能であることを示す論理がなにより重要です。それが可能であれば、様々な問題があっても、「物理上」にある程度照応することができるということなのです。
そして次に「選択的な決定」があります。それが公開されたファンドレイジングです。もちろん僕自身は「作品」が生きているとしてベットするわけなのですが、それを決めるのは誰でもありません。
ただひとつ言えるのは、「作品」は徐々にではあるものの「生命」の形を成し始めている。
…展示会を重ねるごとに僕はそう感じています。
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