かわいい野生 – Description

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「野生生物と人間のかわいい関係」を表現した写真作品

■ 附記




1. 誤解の原因その一 「混同」

さて、むかしむかし遡ること5年前…僕が同人誌『原典と複製』内で記述した概念「世界にひとつを個人でつくる」とは、長い前置きと単純な一文でした。その単純な一文とは「取引履歴の共有が偽造を防ぐ」。これだけです。ただこの共有を実行するには、三つの前提となる条件があります。

  • 前提条件1: 全体量は初期決定され、変更されない
  • 前提条件2: ミニマムプライス(原価値)はサイズ、つまり制作者及び譲受者双方のコミットの多寡により決定される
  • 前提条件3: 取引履歴は公開されていて、誰でも閲覧できる

誤解をしようがない簡単な内容に思えます。ですがコトのなりゆきを見ていると、全体量を事後に増やしてしまうという初歩的なミスを脇に置いても、どうも誤解が生じている。そしてその一つは、ここに書いていない事柄が持ち出されることで生じている。言うなれば、「世界にひとつを王が決める」というモデルと「世界にひとつを個人でつくる」というモデルとを混同したため発生しているようなのです。

そこで再度「王が決める」モデルから説明すると、こちらは初めに王が神聖不可侵の「原典」を設定し、それを「複製」するという考え方です。譲渡するのはその複製物であり、それが野放図に再複製されないよう管理統制します。何度も聞いて耳にエビができそうです。

それに対して「個人でつくる」モデルでは、そのような内容はそもそも記述していません。初期段階では「原典と複製」は分別されていないのです。譲渡物は神聖でもなんでもありません。複製品か、どこか他の島から勝手に持ってきた物か、もっと酷くて海の中に捨てられている電子のゴミなのかも知れない。

ですのでNFTは譲渡物がデジタルデータであって、いくらでも複製できるじゃないかケシカラン、というようなご指摘には当たらない。無敵です。…無敵?なんだこれは意味が分からないという方には、こう言い換えてはいかがでしょうか?

つまり譲渡物は「原典」でなければならないとする、そこが誤解なのです、と。


エエッ?!「原典」じゃないんだったら、やっぱり詐欺じゃないの?そのように思われるかも知れませんが、よくよく考えてみてください。自然状態において、神聖不可侵なモノなど初めからあるでしょうか?否、ありません。海の中を泳いでいるのは(さかなクン以外の普通の人にとっては)一匹一匹分別できない生きた魚であり、ハナから漁港や各ご家庭ごとに振り分けられている切り身が泳いでいる、そんな荒唐無稽なことはないのです。

でもそれなのに、スーパーでは毎日値段のついた魚が売られていますよね?それは何故かというと、市場の開始時刻にその日一日の漁獲高が決まり、諸々の市場作用が働き、すると妥当なところで原価値が設定されるからだと思います。先の三つの前提条件というわけです。

普段、価格決定権を司る ” 王 “が決定するプライスに人々が粛々と従うような二次三次産業の世界に住んでいると思いつかないことがありますが、一次産業ではこの作業が一般に、ごく当然に行われています。

なので僕がしたことと言えば、そのプロトコルをインターネットのような文明の利器を使って再現してやれば写真という複製物にも同じように適用できる、もっとコンパクトにすると個人でも運用できる、それが「世界にひとつを個人でつくる」というモデルだ、とそう指摘しただけなのです。

2. 誤解の原因そのニ 「創発」

ただこういう風にいうと、なんだそんな話かつまらない…そう思わないでしょうか?あまりに簡単な思考の近道が出来てしまうので、逆にその違いや全体像が分かりづらくなる。

何かを知る時には「遠回りがいつも最短のルートだった」ということがあります。例えばでいうと、通常のセリは限られた市場関係者のみが情報を共有しているのに対して、こちらの情報共有範囲は全世界を含むというような違いがある。そして僕が思うにこのインターネットを利用した「無際限の共有」は、一種の擬似的な ” 次元 ” です。

ここで僕は非常に面白いことが起きているのではないかと考えました。それが、ごちゃ混ぜの未分化状態から突如なぜか「原典」が分化しているという「創発」作用なのです。

「創発」とは、本来はモノの集合体でしかないにも関わらず、そこになぜか個性が宿り動き出すという現象のこと(※1)。日本全国米農家は数あれど、新潟のそれも魚沼産の特にコシヒカリは格別美味いですという話になって、ブランド米になりますよね?もちろん米の種類が違ったり、育成環境が違ったり、仕掛け人がいたりするわけでしょうが、ともかく違いが認識できるようになります。

これってよく考えたら、未分化なモノに外部と内部を分別する膜ができ、なぜか彼と我を隔て活動を始める “生命” あるいは “意識” の作用そのものじゃないですか?

そのように考えた僕は、そこで生命の発現と「個人でつくる」モデルとの類似性をまとめ、例として「シュレーディンガーの猫」問題を絡めて論じました。それが『シュレーディンガーのパラソル展』(※2)。「シュレーディンガーの猫」は、話題の量子論であるだけでなく、「個人でつくる」モデルの説明にもってこいで、厨二的な世界観にもなり面白かったのです。


しかし残念なことに、これがまた誤解を生む原因になってしまいました。

というのも、意識は科学的な実験で解明されている事柄では無いからだと思います。そこに科学者でもない人間が仮説提唱をして、怪しげな印象は増すばかりになってしまう結果に。ちょっと反省…。

ただそれによって最低限の事柄、この世界には科学実験で明らかにできる物理上の次元と、それとは異なる次元、それぞれの作用が多層的にあるはずだということが指摘できました。これでなぜ「個人でつくる」というモデルには件の前提条件なるものが必要なのか、ある程度説明できたのではないでしょうか。しかもこのことは、数学とは形而上学だと指摘をするだけで簡単に証明できる話であり、人は普段ソレを利用してやまないのにも関わらず、そのことにまったく無自覚なのです。

ですのでそちらの考察と、加えて意識の科学とその歴史(※3)についても補足説明を行いましたのでそちらも併せてご参照いただき、個性の「創発」は今現在は科学的に解明されていなくても、現実が実際そうなっているのだから仕方ないだろうというしかありませんよと、お察しください ———。

言うなれば、世の中は物理で完結していてそれ以外は不正だとすること、それが誤解なのです。

【コラム】意識の汎唯一性について

意識は汎唯一性をもっている、だから「世界にひとつを個人でつくる」モデルは現実に作用する。そんな説明が全く通用しないとは誤算でした。というのも、知る限り僕の意識は「世界にひとつ」であり、それに僕個人のものであることは自明のことだったからです。 まあ未来にどんなガジェットができるかは分かりませんよ?でも今のところ僕の意識は左右の眼を片方づつ瞑ってもそれぞれが違う意識なんかにはなりません(我が邪眼の封印を解くことで記憶を取り戻したり、性格が変わったりしません)し、意識だけ突然身体を離れてどこか遠くで目覚めたり、あるいは女子高生と入れ替わったりもしないですし、まして同一意識を複製した影分身を作り出して片方は仕事をしてもう片方は嫁のヒナタとイチャイチャするんだってばよ、ということもありません。

だから n=1 たる僕の意識は「世界にひとつ」で、n+1, n+2, n+3, …たる他の人達も同じくそのようになっているはずだ=汎唯一。

ところがそう単純に思わない人もいるそうで、片方には意識を持っているのは自分だけで他人は幻想、哲学的ゾンビだとする他人否定説を説く人がいるらしく、その逆には、そもそも自分は意識を持っておらず、ただ神経繊維が外部刺激に反射しているだけ、人が勝手につくり出した幻想それが意識、とする自己否定説を言い出す人がいるらしいです。…いやこの人達どんだけ幻想好きなんだよ!そんな毎日毎日幻想みてるの?アタマ剣と魔法の世界かよ!だったらもうオレたちズッ友じゃねーか!という訳で、こういうことを真剣に悩んで「我思う故に我あり」とか言い出すのは男の役割でして、女の人はそういうのを冷ややかに見てきて「そんな事で悩んでる暇あったら仕事しろ!」とか小言をいいつつ子供を産んで、それが別の意識をもって喋り出すのを世話するみたいなところがあります。だいたい同じDNAをもつとされる一卵性双生児でも同じように育てた所で同一の意識を持つことはついぞなく、それぞれが別の意識をもつのだから、物理上とは異なる作用が働いているのだろうことは想像に難くない…。

3. 誤解の原因その三 「価値」

ところで、ここまで説明すると重大な誤解はもうひとつあることに気づきます。それが ” 価値 ” の問題です。というのも「世界にひとつ」という言葉には、ただ数値的に1であるという意味と、希少性があって大変価値があるという意味、どちらも含まれているからです。

それは多分ですが「王が決める」というモデルの社会で生活している僕たちにとって、そう考えることが自然なことだからだと思います。なにしろこのモデルでいう「世界にひとつ」とは、神聖不可侵の「原典」だけがあり、その王国にはスペアの複製品すら存在しないということだからです。すると当然、それには希少価値があるということになる。

ところが「個人でつくる」というモデルにとっては、数値的に1と特定することと、それに価値があるということは全く別の話なのです。それこそ物理上と形而上とでは次元が異なる、ということと同じような意味合いです。

といって僕もこれには驚きました。自分で「希少価値ってありますよね?」みたいな事を得意気に言っていたにも関わらず、実は ” 希少 ” と ” 価値 ” はそれぞれ別の概念であり ” 次元 ” だったとはね。一杯食わされましたよ。ですがそれも当然じゃないですか?なにしろ『誤解の原因その一』で述べた通り「個人でつくる」モデルにとって、譲渡物は神聖不可侵でもなんでもないのですから。

そしてこの誤解、数値的に1であることとそれに価値があることは同じだとする誤解(ある意味「混同」でもあります)が、数ある混乱の中でも一番大きな影響があった事柄だったように思います。

制作者に無断で登録されたデータを勝手に販売できるからけしからん、デジタルデータのアイコンみたいなモノに超高額の値段がついているからこれはマネーロンダリング。そういった、” 無価値 ” のモノを数値的に1である形にしたが為に不相応な価値がついている、そのような受け取り方がいわゆる詐欺のように受け取られた。

…でもそれは誤解です。

もうご理解いただけたかとは思いますが、NFTという仕組みが担保しているのは譲渡物の ” 希少性 ” だけなのです。” 価値 ” じゃないんですよ。

引き続きこれを漁師の喩えでいうと、たとえ元は同じ群れの魚でも、2隻の漁船が別々に獲ったらその魚の所有権はそれぞれに宿り、さらにたとえ漁協から割り当てられているため漁獲高が同じだったとしても、船上の後処理工程などによってそこにつく価値は大きく変わるかも知れないのと同じです。

加えて指摘すると、この希少性と価値の関係性は丁寧に隠蔽されているものの、「王が決める」というモデルであっても実は同じように別問題のはずなのです。

例えばですが、砂漠のど真ん中に放り出されて死にそうになっている状況で、いきなり砂漠の女神がザバーッと現れて、あら…貴方が落としたのはこの金のダイヤモンドだったかしら?それともこの銀のダイヤモンド?どっちでもデビ○ス社の「世界にひとつ」鑑定書付きだから品質は保証するわよ!と言ってきても、正直者の僕だったらこう即答しますよ。いいえ、私めが落としたのはみすぼらしいペットボトルのミネラルウォーターです…あ、でもすごいキンキンに冷えていました!あとできれば軟水で!とね。たとえ後から考えれば、もう10分歩けばオアシスが見つかったのだとしても…。

だから一番の希少性である命は大切にね!という話(※4)をしていたのですが、そうしたら北方で戦争がおきていました。きっと電気もたくさん浪費しているに違いありません。

ことほどさように、人の世では価値の方だけ見て、希少性には眼を瞑るという事態がママおこることが分かります。だいたいこの論稿のタイトル「世界にひとつは命の数だけある。」を見た貴方、それだったら「世界にひとつ」=命なんかになんの価値もないな?って思わなかったですか?思った人は正直に手を挙げて反省するように。


さて、そうするとはたしてNFTのような仕組みをわざわざ作って希少性を担保することに意味はあるのか?という話になってきます。価値のないモノが希少だといってどうするのでしょうか?

しかしそこで『誤解の原因その二』に戻ってみてください。「個人でつくる」モデルというのは、未分化な状態から「個性」が「創発」されることを目論んでいるということだったと思います。つまりもし、希少性という次元が担保されているのであれば、その上層に存在するこの一見不思議な ” 価値 ” という次元の方は、個人の泥臭い努力で捻り出せばよいということです。

そこで個人に ” 価値 ” を取り戻す!イツキノミクスが提唱した三本の矢は左記のとおりでした。

  • 一の矢: 行動に責任をもつ
  • 二の矢: 共感・シンパシーを得る
  • 三の矢: 成長する(成人の儀式あるいは逆境を乗り越える)

なんだか説教くさいな?と思うか知れませんが、これらはメテオロスケープ・プロジェクトが独自に行っていて、NFTでは実施しないような、とんでもなく余計な施策のことを指しています。それが

「譲渡する写真に無くても構わない交換保証をつける」
「規定の売上が上がるまでは自らに縛りを科してサイズ制限を設ける」
「その譲渡する写真には嫌なモノが写っているかも知れないと宣言する」です。

というのも僕が譲渡物としている写真に価値は、元からはありません。世界中で撮影された写真が毎日ネットで共有されています。閲覧無料です。むしろ要らないといっても広告だからといってとんでもなくハイクオリティな写真や映像を見せてきます。カメラマンの労働に対して対価を払うであるとか、インテリアとして売られているから買うであるとか、写真集つまり本を買うとか、はたまたカレンダーを買うので写真はオマケとかいうことはあっても、写真そのものを一枚切りで売りますといっても普通誰も買わない。

それは件のNFTで出品されているという様々なデジタルデータだってきっと同じです。誰も購入まではまだいかない。もちろん既に価値が定まっている美術家の作品だったり、知り合いで価値が分かっているような場合は別ですよ?するとむしろ実体がなくデジタルの方が、邪魔にもならないしノリで買っちゃったよみたいなことがありえる話じゃないでしょうか?

でもだからこそ、三本の矢なのです。この三つの事柄は、人が生きていく上でみな当然のように行っていることでありながら、いわゆる典型的な ” 英雄譚 “の一種です。

その中で、僕たちのヒーローは始めは未分化状態です。どこの馬の骨とも分からず、死んだ魚のような目をしているかも知れません。しかしストーリーが進み、時が流れると徐々に責任ある行動が共有され、共感を得て成長する。すると自ずと価値が感じられるようになる。更にそれらは制作者だけでなく、譲受者となる側にも相補的に作用します。それが人類が普遍的に語り継ぐ典型的な英雄譚であり、さればこそ価値がある。

———なぜなら ” 価値 ” とはコミット、つまり思い入れのことだからです。

…これが僕の考えですが、この辺りの機微があまり理解されないのも誤解の原因だったか知れません。

4. そして四つ目の”誤解” 「地獄」

さて、ここまで三つの誤解を解いてきましたが、もうひとつ致命的な ” 誤解 ” があると思っています。その ” 誤解 ” とは、そもそもこの個人でつくる「世界にひとつ」の求め方が間違っているとする見方です。

???「未分化の状態を放置して、時間と共に『創発』するだと?怠惰なヤツだ。確かにキサマが述べた ように『世界にひとつを王が決める』というモデルは行き詰まっている。であればそんな紛い物 ではなく、真(シン)に『世界にひとつ』を新たに用意すればいい…。」

黒幕がなにかよく分からないことを言っています。ですがこの黒幕は身近に大勢いると思います。そして彼らの主張を読み解くには、身の回りの状況をよく観察してみないといけません。例えば、今話題のイラスト作成AIの話はどうでしょうか?

ここでいうAIとはいわゆる『Midjourney』のこと。『Stable Diffusion』でも構いません。指定したキーワードを元にAIが自動で画像を生成するWEBサービスだそうです。そしてこの生成するイラストがまた上手い早い安い仕事キッチリだそうで、2022年の7月ごろから描かれたイラストを見ることが多くなりましたが、実際スゴイ。もうイラストレーターの職がなくなるんじゃないかと噂されているほどでして、ちょうど19世紀写真が発明された時に肖像画家の仕事がなくなると言われた状況と似ています。そんなことが出来る時代になっているんですね。

ここで言いたいのは、イラストレーターが職を失うということではありません。それは要するに新しく複製技術ができたことでAIオペレーターにジョブチェンジするかも知れないというだけの話です。そうではなく、それと同時に起きていること。AIの「深層学習」と「IDEA」という概念がやはり非常に近いところにある、それが示されていることを言いたい。というのも、それは以下の事態を予期させるからです。


純粋に「IDEA」を扱い、またそれをデザインすることを生業にしている人達にとって、それが複製されかねず、今後大きな影響を受けざるを得ない。


僕は『芸術には3通りある。』(※5)でアートは ” 仕事 “と密接な関係にあると言いましたが、「IDEA」の複製となると、ひろく職人とデザイナーの仕事への影響は不可避だと考えています。するとどうなるかというと、だいぶ抽象表現になってしまいますが、デザインアートへの思い入れが減じ、価値が相対的に失われるため、全体が職人の方へシフトしていく。そして職人はAIに安直に複製されないよう、今よりさらに秘密主義で選民志向になるのだろうと思うのです。

例えばですが、誰でもデザインできるソフトウェアのはずの『Illustrator』ですら、もうどう使っていいかよくわからない秘密だらけですよね?解説サイトが賑わったりします。それが今度は、完成品のイラストがAIで量産されるようになります。するとデジタルなんか使わず、全て鉛筆で描きますという人が有名になりませんか?今でもそうです、そっちの方が偉い。そこで使われている技術は、まったく秘密裏で複製できません。フフフ…私は ” 神の手 ” を持っているからまるで生きたリンゴを描けるのだよ、とね。

???「…そしてその研鑽の遥か彼方、それが本当の希少価値。シン・『世界にひとつ』だ。」

これが黒幕がいう所の「世界にひとつ」じゃないでしょうか?最近はそんな考えがいろんな所で透けて見えることがあります。機械にすり潰されたきっと何者にもなれないモブに価値はなく、価値のある限られた美しい国民だけが生存した方がいい、日本は人口半減して見目麗しく有能で従順な五千万人が生き残ればいいのだ、後はAIが全て処理する、それが地球環境にもセクシー的な理想。

それこそがナチスですよ。ナチスっぽいファッションをしている方じゃなくて。そんなことを言っているから、クローンであるアヤナミであっても、それぞれに別の意識をもった唯一の生命なんだということを理解できないんです。

…途中からアニメ映画の話になってしまったような気がしますが、要するに言いたいのは、このような事は過去、人類は経験済みということです。そんな歴史は繰り返さなくていい。そんな「世界にひとつ」は、はっきり言って要らないんですよ。職人の技が光るのは毎日の生活で研鑽の結果です。目的ではありません。

誰だこんな地獄持ってきたの。

エピローグ: アートと譲渡と、時々、写真

…というわけで、5年前に提出した「世界にひとつを個人でつくる」という概念にまつわる様々な誤解と混乱を見てきました。もしかすると、行き違いは他にも沢山あるのかも知れません。

しかしここまでくれば「ビットコインやNFTに価値はない」という言説がいかに傲慢で視野狭窄か、ご納得いただけたのではないでしょうか?そもそも、ひとの思い入れにそんなの価値ないよとケチをつけるなんていう行為は、始めから慎むべきですよ。僕も他人のことをあまり言えませんが。夫の趣味のプラモデルを邪険に思った妻が、夫が仕事に行っている間に無断で棄てたりしたら、まさに離婚の危機ですよ。

もちろんその思い入れ対象が、犯罪や今話題のカルト活動であって、関与する当人たちの人生を破壊するようなモノであれば話は別ですよ?そんなの価値ないよと僕も言いたくなる。

ただこの「世界にひとつを個人でつくる」というモデルは犯罪どころか、この先も「世界にひとつを王が決める」というモデルが安定稼働するために必要不可欠な概念であり、そしてそれは例の ” 地獄 ” を地上に現出させないためにも必要な存在である、そう僕は思います。だってそうじゃないですか?

既に指摘したように「個人でつくる」モデルが存在しなければ、人はその自由と独立を手放さざるを得ず、個人の存立すら危ぶまれる、それがディストピア未来だと言いましたが、僕にはそれがまさに現在進行形で起きている事態のように思えるのです。例えば Me,too や BLM といったカウンターが活発になったのはビットコインが登場してからというのは、はたして偶然でしょうか…?

それにこれは誰かの指図で存在している訳ではなく、そこに価値を感じる参加者が自主的に行っていることです。NFTで譲渡された作品の最高額は75億円(※6)でけしからんというか知れませんが、例えばあるひとつの作品を維持する個人ひとりを支持するためには、一年300万としても一〇年維持で3000万はかかるものであり、そんなパトロンを騙されてやっているということがあるでしょうか…?

加えて今は無価値に思えるアイコンひとつでも、一〇〇年もすれば時代を表現するモノになるかも知れません。もちろんそんなことはなくてただの失敗になるかも知れない。しかしそれが「IDEA」という ” 正解 ” を追い求めず、むしろその周辺の ” 不正解 ” 領域を逍遥する現代アートなのではないでしょうか…?

だから未熟な部分、例えばビットコインは維持のために莫大な電力が必要になっているであるとか、NFTが盗品に希少性を付与している場合があったとして、僕としてはまだもうちょっとその辺りに価値を感じてもらいたい。特に、価値ない宣言をしだした例のパソコン富豪おじさんは問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。自由や独立を手放すことを是とする前に、人に機会を与えるのが筋ってものじゃないのかと。

…そしてこんなパンデミックや戦争がおきている世の中だからこそ、「世界にひとつを個人でつくる」ということに、もっと価値を感じてもらいたいと思っています。


これで『原典と複製』から始まった大いなる誤解と混乱の話はおしまいです。くぅ疲れました。願わくば「世界にひとつを個人でつくる」という概念が、これからも人口に膾炙しますように。

それと最後にもうひとつだけ。僕が制作している写真作品について、上に付随した誤解を解いておきたいことがあります。

プロジェクトサイトをご覧になると、僕がそれらを「IDEA」的な ” 正解 ” に近いデザインアート Graphic Work と、” 不正解 ” の現代アート Photographic Work とに分けていることにお気づきだと思います。もし譲渡するということを考えた時、おそらく抵抗感が少ないのは Graphic Work に違いありません。それに対していわゆる現実が写っていてそこに相当の思い入れがなければ譲渡されることはないだろうというのが Photographic Work という訳です。

その違いとは、これもまた誤解を大いに招いた喩え話になってしまったようですが、『インテリアアート導入プログラム』(※7)でいう傷の見えない縮小画像と、それが明らかになってしまう大きなサイズの「原典」との違いと同じだと思っています。ですが、だからと言って Graphic Work の方を化粧済みで複製可能と否定していたり、Photographic Work の方を修正を一切していないから逆に ” 正解 ” だとしている訳ではありません。

ついでにいうと写真として被写体を消去する修正はなるべくしないようにしているものの、どうしても必要な場合は、どちらにせよ修正していることがありますし、ノイズだらけの昔の写真をAIによる補完によってなんとか見れる物に修正していることがあったりします。その不愉快な ” 現実 ” を知りたい方にはお伝えします…。

まあ確かに、今後人が抱く思い入れの強さはデザインアートよりも現代アートの方がきっと勝るに違いないと思われます。どれだけの人が量産される絵にいつまでも思い入れを保てるでしょうか?

しかし『写真芸術にも3通りある。』(※8)でも述べたように、現代においてデザインアートと現代アートとは、あくまで制作者が提出した仮のカテゴリでしかありません。それがどちらに属するかの判断は制作者ではなく、あくまで譲受者に委ねられている。

というのも、断言しますが「IDEA」完全なデザインも、本当に「IDEA」から逃れらている現代アートもあり得ないからです。だからこれからどれだけAIが進化しようと、量子コンピュータが開発されようと、人の代わりに働けるロボットが生まれようと、「世界にひとつを個人でつくる」という概念があれば、しばらくの間ヒトはディストピアに陥らず、今とさほど変わらず過ごせるはずである。

いやなぜそんなことをハッキリいえるのかって?そんなことは簡単ですよ。それはもちろん…


——— “No Man is Perfect.” だから、なのです。

PREVIOUS:Photographic Works

■ 識別情報


Seriesかわいい野生
Photographer九条いつき
Captured Date2020.01.11
Location春日大社周辺
Titlesかわいい野生_01-32
Reproduction Limit2
ID Historykawaiiyasei,
Notice譲渡時要地権者認可

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