白球を追って – Description

「野球のハル」を表現した写真作品

■ 附記



アメリカ人がアメフトを好み、ブラジル人がサッカーを好むのと同じように、日本人は野球を好む人が多い。そしてまがりなりにも世界大会で優勝する。そういう特筆すべき現象がおこるのは「平均的価値観」の傾向が原因に違いないと思う。

つまり特筆すべき現象の裏側には、やはり特異なバックグラウンドがある。

WBCの裏側には大抵各国のプロ野球リーグがあり、日本の場合はその裏側にそれを支えるスポンサー企業がいてプレイヤーを排出する高校野球があり、甲子園がある。そして中には、この背景には陰謀があるのだとする説すらある。野球はアメリカの占領下にあった戦後、CIAが仕掛けたアメリカ称揚の文化なのだ、と。

しかし今回甲子園周辺を撮影したことで、そんなバックグラウンドの「真実」の様子が垣間見えたのではないかと思う。それがこの作品を「Photographic」にカテゴライズする理由である。


ただこれは外国人にとっては一目瞭然であっても、日本人にとっては逆に分かりづらいかもしれない。なのであえて一つ指摘すると、甲子園周辺には空きグラウンドが多いということがある(そこに桜が咲いているのだ)。もちろんその余裕がなければ、数多くの高校が一堂に会する大会を開催できないだろう。

だがこの「グラウンド」がいかに「人工」の産物か。草ひとつ生えていず、地面が平らにならされている。水はけもよい。そんな環境が自然には発生しない。しかもそんな特異な設備を無料で開放しているし、あまつさえ全国の学校が備えている。なんだこれは?野球のためにネットまで用意しているではないか!他国の人からしてみると、異様な風景なのである。


今回の周辺散策ではさらに興味深い事実を発掘できた。それが「甲子園」の原典、「鳴尾球場」である。

“全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会は1915年(大正4年)大阪・豊中球場で産声をあげ、1917年(大正6年)の第3回大会から鳴尾球場に会場を移した” 。甲子園から南に1キロ。鳴尾球場跡に設置された銅像の銘板によると、初期大会から参加校が膨れ上がった結果、1923年(大正12年)の第9回大会まではこの鳴尾球場に会場を移して開催されていたらしい。


ここで事件が起きる。その準決勝、甲陽中学ー立命館中学の途中で観衆が場内に流れ込み、試合続行が一時困難になったのだ。応援団のとんでもない熱気が伺える。それがスポンサーたる阪神電鉄に甲子園球場の建設を決心させたのだという。


 ところでこの鳴尾球場は、大規模な重機もないような頃にどうやってその「グラウンド」を整備することができたのだろうか?実はその答えも銘板に解説されている。それが「鳴尾球場」の更に原典にあたる「鳴尾競馬場」(1907年・明治40年設立)だ。要するに地面を耕していたのは、グルグル回った競争馬だったのである。校庭の桜の樹の下には、ウマの骨が埋まっている…のかも知れない。

しかし競馬の後に野球とは、まったくとんでもない偶然もあったものだ。これだから「周辺」散策は面白い。

PREVIOUS:Photographic Works

■ 識別情報


Series白球を追って
Photographer九条いつき
Captured Date2023.3.29
Location甲子園周辺
Titles白球を追って_01-12
Reproduction Limit2
ID Historyhakkyu,
Notice

ページ: 1 2


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です