Art



それは「世界にひとつ」を探す旅 ———

■ 芸術には3通りある。


芸術の歴史的な解釈0: アートってなに?

アートってなに?というような話をします。

そもそもなんですが、日常会話の中で「アートが好きなんですよー」といいだすのは止めた方がいいというのはご存知でしょうか?危険信号。いやもう一歩踏み込んで、「私ってアートにちょっと携わってます」なんて言ったら目も当てられない。

なんなんだこいつは、頭おかしいんじゃないのかくらいの罵詈雑言。周囲の人間が残らず臨戦態勢になり、斧とかメイスが飛び交うくらいの宗教戦争が始まってしまいます。

でもね、そうなるのは皆さんが御本尊を大切にされているからだというのは分かりますよ?分かるんですが、素人は発言もダメみたいなルールは、さすがにインターネット時代だとそぐわないと思いませんか?誰でも彼でも気軽に主張できる、それがナウでしょ?

ただですね、基本的な理解が違っていると、むやみに喧嘩が始まってしまいます。それは誰もが望むところではない。

まずは君が落ち着け。

芸術の歴史的な解釈1: 普遍のIDEA

さて、なぜアートはここまで人を狂わせるのでしょうか?

まあ詳しい話は専門家に任せたいと思いますが、僕はそれが歴史が長いからだと思っています。例えばそれこそ宗教。歴史が長いですよね?歴史が長いと、たとえ初めは1個のものでもだんだんに色々な解釈がでてきます。それに従って色々な派閥ができたりする。主導権争いもする。権力があっちへいったりこっちへいったりします。

アートもそれと同じで、一口でこうですとはいえない歴史的な事情があると思うんです。それが界隈の殺伐と喧嘩の元になっているんではないでしょうか?そこでここでは大雑把にアートの歴史的な解釈を3つに分けまして、それぞれに停戦協定を結びたいと思います。それがこの「芸術には3通りある。」論なのです。

アートという言葉は西欧起源になるのかと思いますが、発想としては一番素朴で人類普遍の観念だと思われるのがこのアート=普遍のIDEA論です。

人類が猿から進化して文明が発達してくると、ギリシャでも中国でも「真・善・美」というようなIDEAが人々の間の共通理解になってきます。IDEAとは、要するに究極に完成された普遍の「美」が元々概念としてあって、それを現世に一部表出させることができるもの、それがアートであるというようなイメージです。いわゆる黄金比。黄金の回転で無限のエネルギーです。

そして究極に完成された「美」に向かって作品がどれだけ近づいているか、それによってその作品の価値も決まる。その価値は普遍のものである。美醜の感覚でもっとも素朴なものですね。アートという言葉が表すものに技術が含まれていますが、おそらくその「完全体」に近づくものというような意味合いだと思います。

とにもかくにも物を作ってる最中は、その「美」とでもいうべき自分の中の感覚と対話する他なく、普遍のIDEA論、一理ありといわざるを得ません。

なので誰がその「美」の作り手になるかというと、この道一筋の職人さん達です。ギリシャ文明が紡いだIDEA、中国文明が紡いだ真善美を正統に後継したのは、職人文化です。歴史的にみるとそんな中世が長く続いたんですね。

ここで注意しておきたいのは、その「美」は誰か特定の人が決めているわけじゃないというところです。究極の真理のひとつとして「美」があるというのが前提になる。なので誰が見ても分かる。つまり一般大衆の好みの平均値にその「美」はある。今でいえばビッグデータにある。もしかしたらその右斜め上くらいにある。と、そんな感じになります。

今も職人技・アルチザンこそアート派は大勢を占めます。つまりこれが芸術という概念のひとつ目の解釈という訳です。

そのように考えている人の前で、素人が「アートに携わっています」というと怒られが発生するのも無理はありません。でも噴き上がるのはちょっと待っていただきたい。なぜなら、芸術の解釈はここから大きく変遷していくからなのです。

芸術の歴史的な解釈2: 個性とデザイン

アートが究極の真理としての「美」を目指すものとされていた時代、もしくは今もそうな人達からしてみたら、職人こそが正義。またその時代も長く続いたという話をしました。なにせ職人は日々たゆまぬ研鑽を積んでいますから、究極と至高の親子喧嘩を経て孫ができて一件落着かと思いきや、そのまま末永く続いたのです。サザエさん方式で1000年くらい続いたと言われています。

しかしそこでハタと気づいた人達がいたのです。なんか最近飽きたな、という人達が。旧世代を否定するような、若い勢力が台頭してくるのです。そういう時代になると、徐々に街中に「そこら辺の古いのと私はちょっと違うよ?主に左手が疼くところが」みたいな意識の高い個性的な人達が多く現れてきます。これは西欧では科学技術や宗教などまとめてギリシャ・ローマ時代を見直そうという回帰現象となっていまして、ルネッサンスと呼ばれています。

そんな時代、徒弟制度の職人芸術界に突如殴り込みをかけてきたのは誰だったでしょうか?それは実は今でいうところのデザイナー達でした。彼らは個性という目新しく強力な武器を手にしていました。これがアートの新しい解釈である、アート=個性とデザイン論なのです。

もちろん始めはそこまで突飛ではありません。(やや時代は下りますが)騙し絵みたいな、職人技は今まで通り凄いけれどもちょっと今までとは違うというような作品がでてきます。野菜で顔をつくったりします。肖像画に斜めに歪めた頭蓋骨を意味なく挿入したりします。そういった環境ができあがりつつある中で、それまでの職人技ベースの上に新しい個性のエッセンスをトッピングできる、そのような曲芸師・魔術師がぞくぞく登場しました。

この時代のスーパーヒーローといえば、やっぱりレオナルド・ダ・ヴィンチ。職人芸術たる『最後の晩餐』でキリストの肖像を残しているダ・ヴィンチですが、もうひとつ有名な作品がありましてそれは聖母マリアの肖像、ではなく、あくまでどこかの一婦人でしかない『モナリザ』の肖像画なんです。それが代表作とかすごい「個性」でしょ?

本邦でも、過去の文化を見直すという同じような形で文化的な下剋上がたびたび起きています。例えば白紙に戻そう遣唐使で有名な菅原道真ですが、この海外派遣を中断したことで、縄文弥生の昔から大陸文化を常に仰ぎ見ていた日本にも国風文化が起こりました。

さて、こうやって歴史的にみると文化的なスクラップ&ビルドが行われた結果、伝統的な職人芸術にも新しい個性が認められるようになってきたというのも頷けます。そしてこの新しいデザイン芸術は、旧来の職人芸術を守りつつ、その伝統を破り離れるという一見するとアートとして正統に進化したようにも思えます。おそらくダ・ヴィンチも「これからはコレだよコレ!」と肩で風を切っていたに違いありません。

このアート=個性とデザイン論、個性を大切にするのが大事なことだとして進歩的な教育業界に強く反映され、今もそのシンパを日々増やしていることと思います。また、特に服飾や建築なんかはIDEAとしての機能性も必要ですが、ある程度新規性も必要ですから、このデザイン芸術の独壇場となっています。

そんな新時代アートの担い手になったデザイナー達でしたが、ここでまた時代が大きく変わります。デザイナーは「アーティスト」ではなく「デザイナー」と規定されるようになったのです。しかしその垣根は非常に曖昧であり、ミュシャはデザイナーであっても歌麿はアーティストだとされたりします。

そうすると、もしかしたらアートとデザインの枠組みを決めているのは一部の権威をもつ人たちなのかもしれない・・・特に現代アートなどはセンスも悪い。そのように考えているかも知れない人の前で、素人が「アートに携わっています」というと怒られが発生するのも無理はありません。いかに「アートが好き」というのが爆弾発言なのかということがわかりますね。でも噴き上がるのはちょっと待っていただきたい。

なぜなら当の「アート」がどこへいってしまったか分からないからです。「アート」はどこへ行ってしまったのでしょうか?

芸術の歴史的な解釈3: 動機と進化論

そんなこんなで時代は近世から近代にかかってきます。そうするともう馬車のそばを鉄道が走り始めます。日本だって明治維新です。日本の夜明けぜよ!といって険しい顔をしないといけなくなります。歴史の授業で出てくる、家内制手工業が工場制手工業や工場制機械工業に切り替わっていきます。家で作業していた職人が、機械工の労働者に置き換わっていきます。

ここで希少価値について思いだして欲しいんですが、大量生産されるものには価値がなくなる。今まで希少価値があったはずの職人芸術にも、疑問符がうたれるようになってきたんですね。複製技術の発達に伴って、普遍のIDEAの強力な支配で安泰だったはずのアート業界にも激震はしるわけです。特に写真技術は肖像画家の食い扶持を大きく損ねたとされています。そろそろ王制も打ち倒されるわけですし。

加えて、そんな複製技術の根幹にある科学観の広まりがあります。ガリレオのおかげで太陽の代わりに地球が動きます。ダーウィンが進化論を書きます。そうしていくに従って、いかに人間の判断力が環境に左右されているか、「美」がいかに慣習の産物であるか、興りがあって滅びがあるかというような、要するに「美」の相対化がなされたわけです。相対性理論です。

そうなってくると、デザインを「アート」としてやっている中の人も大変です。ぼんやりとしてはいられないです。今までは牧歌的な【やってみた】系だったところから、徐々に個性が強くなって、相対的により先鋭的なデザインへと移項・進化していきます。「おまえ左手が疼くっていってたけど、オレなんか右目がアレだからな!右目がアレだからな!」といいだします。

ここにちょっとだけ関わってるんじゃないかな、と思うのがジャパンという極東国家です。まあその頃の異文化交流はジャパンだけにとどまらないのですが、大航海時代も終盤の時期に異質な「美」の基準が西欧に流入していったのは間違いありません。

なにせシモブクレのお歯黒が美人だったりしたわけです。壊れたようなお茶碗をみて「いい仕事してますね〜」とワビたりサビたりするメガネをかけた人達がいる。それをみて、西欧にも「ワイ ゴッホ 枯れ木を油絵で書いてみたったwww」みたいなことをする人がでてきたりするんですね。ハゲと髪一重な格好が最高にcool、そんな人達に、出会った2時間スペシャル。

ここで例にあげたい象徴的な「アート」といえば、ロダンの『考える人』だと思います。『考える人』の時代です、まさに。それじゃどうしたらいいのか?と。しかしそこで考えついたのは、彫刻の人体美・IDEAはギリシャで完結といわれ続けた2000年、それをあえて離れた、ヘタウマのブロンズ像です。

もちろんロダンのじいさんだって現代日本に生きてたらライザップしてたかも知れないですし、糖質制限最高!といってた可能性もありますよ。大理石一枚から掘り出す普遍のIDEA・ギリシャ彫刻に憧れだってあったに決まってる。そこでしかし、確かに隠れライザップはしますけれども、結果的にそこから決別をするコミットをします。これが大海賊時代の幕開けなんだと宣言したりします。

それが思想に凄みをもたせるという新時代です。ブロンズ像という複製技術がベースにある芸術に、しかしそれを感じさせないアウラを被せていくのは作品の個性を訴える『ロダンの言葉』であり、それがまた極東に届く頃には、それをそのまま純粋に受け取った人々の間で芸術が爆発する“最悪の世代”が産声をあげるわけです。そもそも「美」ってそんなに決まったものなのか?コノヤローバカヤローという。アート=個性とデザインからの、=動機と進化論の爆誕。

そんなわけで「芸術は爆発だ」なんです。原始芸術回帰。あなたのソレは文化的なものに毒されず、原始的な欲求を表現しているのか?その初期動機がまず問われ、それがどのような進化を経て、結果どういった作品にたどり着いたのか?それが問われる。

というわけで時代は目まぐるしく変わりまして、歴史が一巡してる感があるわけなんですが、ここで件の「なぜデザインはデザインで、アートはアートなのか」に答えがでますね。そうです。IDEAと個性とのバランスがいいデザインこそアートという単純な考え方は退潮していったからです。

つまり初期動機が役に立つためのものを作るという場合はデザイン、それが真摯な動機や個性的な狙いがあるのがアート、そのように分離していったということなのです。複製技術の発展により旧来の「アート」は死んだ、そのように受け止めた人々のあいだから2回の世界大戦を経て出てきたのが、この作品解説が重要な役割を果たす現代アートです。

・・・って、就活かよ?生活するのにお金が必要だし、御社の業務に興味もあります頑張りますじゃダメなの?粋な職人だったらそんな野暮なこと言ったりしませんよと思いますが、まあそうなっている。

これが、他二つの流派に与する人たちから行方が不明と思われている「アート」の現在地なのです。

最後に: ヘンテコアートを超えていけ

ところでここまで来て、ちょっと大丈夫かなと思うことがあります。それというのも、原初で普遍のIDEAを否定し、ただ個人の動機が残った作品を誰が評価するのかという問題があるからです。作者がなにか言っているだけの難解なアート?現代アートって全然わからんわ〜という素朴な感想ですよね。

それにそんなことをしていて、下手をしたらIDEA職人がすごい剣幕で怒鳴り込んで来ます。「それって———デザインが全然なってないよね?」という冷静なツッコミを入れる人が来ます。その動機は本物なの?という悪魔の証明を強いる人が来ます。そうなったらもう不毛ですよね。冷戦ですよ。ベトナム戦争ですよ。

ただこういった一見ヘンテコアートがいろいろできている現代なわけですが、それと違う見方もあるんじゃないかなというところなんです。その一つがイノベーター理論。スタンフォード大学の社会学者、エベレット・M・ロジャース教授(Everett M. Rogers)が提唱したイノベーション普及に関する理論です。この社会進化論的な理論を参照すると、先述の「デザイン」と「アート」の捉え直しができます。

要するに、デザインとはアーリーマジョリティー向けで広く理解者を募るもの、多くの人の課題を解決するためのものであり、アートとはイノベーターであるっていうことです。

これがレッスン4だ。敬意を払え、ということなんです。

なぜその作品に敬意を払うのか?なぜ美術館にトイレを展示する人に敬意を払う必要があるのか?そんなことに何か意味はあるのか?

その答えとして、そのイノベーションがその後の人類にある種普遍的な影響を与えるから、もしくは逆に普遍的な影響を見越してそれを象徴する何かをつくり形にするからである、ということが言えるんですね。

現代の「アート」は真摯な動機や個性的な狙いが問われるのはもちろん、その歴史的な位置付けが問われる。それが超克のアート=?論です。

?にはお好きな言葉をいれてください。

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